ごはんと瞑想と日々のうたかた

おいしいごはんと、瞑想のようなもの思いから浮かぶ言葉と、日々のささやかなできごと。そんな生活の切れ端と、たまにディープに心のことを、思いつくままにつづります。

全てが幻だとしたならば

”この考えを、マイケル・タルボットは『投影された宇宙』(川瀬勝訳/春秋社)の中でこのように要約しています。

つまり、我々の世界や、そこに存在するすべてのものーー雪の結晶からカエデの木、流れ星や回転する電子までーーは単なる幻想であり、我々が考えるものとは空間的にも時間的にも全く違う次元にある現実の投影だという証拠があるのだ。”

 

 

”この現象について、映画『私たちは一体何を知っていると言うの?』の中で、量子物理学の第一人者でもあるアミット・ゴスワミ博士はこう言っています。

我々はみな、自分のまわりにあるものは、すべて自分の意見や選択に関係なく、すでに存在しているものだと考える習性がある。そのような考えは捨て去るべきだ。
そして、我々のまわりにある椅子やテーブル、部屋、カーペット、さらに時間さえも、物質的な世界は、すべて意識の働きにすぎないのだということに気づかなくてはならない。我々はその働きの中から、時おり実際の経験を選び出し実現させているのだということに。
根本的に変えるべきなのは、その考え方だけだ。しかし、自分たちの経験は独立してすでに存在しているのだという考えに縛られている我々にとって、その変化はあまりのも大きく、あまりにも難しいものだ。
けれども、その考えは間違っている。量子物理学が、それをはっきりと証明している。量子物理学の先駆者の一人であるハイゼンベルク自身が、「原子は物質ではなく、傾向にすぎない」と言っているのだ。
我々は物質について考える代わりに、可能性について考えるべきだ。すべては意識の可能性なのだから。”

 

【「ザ・マネーゲーム」から脱出する法/ロバート・シャインフェルド】


さて。
すべての眼に映るものは別の次元の投影であり、自分の周りにある物質(もしかしたら、他人も、自分の肉体さえも?)も、空間も、時間さえも、単なる意識の働きによるもの、過去から未来に流れるものですらなく、すべてこの瞬間に自分が作り出している幻想だとしたら?

なんてことを考えるのを、ここしばらくは忘れてた。
どちらが現実なんだろうかと、時々、戸惑い、そ んな二分法すら、意味のないものかもしれないという思考のループに陥るのだけれども。