ごはんと瞑想と日々のうたかた

おいしいごはんと、瞑想のようなもの思いから浮かぶ言葉と、日々のささやかなできごと。そんな生活の切れ端と、たまにディープに心のことを、思いつくままにつづります。

「ペルソナ」と「影」の境界が崩壊する日

昨日今日と、セラピーを生業としている方と
話しながら改めて、心づいたこと。


最近のわたしはひとと会うときに

自分をひらいておくことと
自分のなかで何が起こっているかに
気づき続けるということに

いちばん力を使っているみたいだ。

・・・

セラピストにとっての浄化とは?
というテーマについて
いろんな方の意見を伺っていた、ここ数日。

それは、自分の心に何があるのかを
クリアに把握し続けること。

相手や自分の心や情動との間に
適切な距離をもち、そこに飲み込まれない
自己感覚を持てるようになること。

改めてそう、確信した。


それができないと、そこでおこる様々なことに
不用意に巻き込まれてしまったり
自分と相手との境界が曖昧になってしまったり
場の中で露わになったものを
引き受けられなくなってしまう。

・・・

思想家のケン・ウィルバーは『無境界』の中で
アイデンティティの主なレベルを
スペクトル状に配置するという試みを行う。

スペクトルの最後のレベルである
仮面(ペルソナ)のレベルでは
自我がさらに限定されるとし

「影、すなわち魂の好ましくない側面を
疎外、抑圧し、心の特定の側面、
われわれが仮面と呼ぶ魂の一部だけに
アイデンティティをもつようになる」
(『無境界』p25-26)

と言う。

 

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(『無境界』p25)

 

これはどういうことかというと
ひとは、これがわたしだと認められる部分
好ましい姿だけを、自分だと思いたがり

残酷だったり、醜かったり、ずるかったりする
そんな、みたくないような自分の一面や
怒りや憎しみ、恨みなどの感情を抱えている
そんな自分は、自分ではないと思いたがる……

そんな傾向が当然にある、ということだ。
 
 
そんな、自分だと認めがたい自分をも
自分だとみとめ、受け入れていくのが
「わたし」を含み超えていく道程だけれども

それができずにいると、認められない自分は
影として追いやられて疎外され
時には自分ではなく他人や環境が
自分にその行為や感情を向けていると錯覚する。

境界線をひくことで
「境界線が領域を、戦いの可能性を秘めた
二つの相対立するグループにわけてしまう」
ことになり
「仮面としての自分対環境、からだ、頭の
諸側面の間に戦線が生じる」
結果となってしまう。(『無境界』p26)


それによって何がおこるのか。

例えば昔のわたしは、自分がどう見られているか
自分の言葉がどう受け取られているか
そんなことを気にしてばかりいて

相手の話を聞いているような顔をして
全く聞くことができていなかった。

つまり、自分の「影」を見られることを恐れ
「見られたいわたし」を見てもらうことに
腐心していたわけだ。


でもその「見られたくないわたし」も
わたしであると受け入れられれば
それを影に追いやる必要は消えいく。

だからいまのわたしは、自分をひらき
自分と相手の目に映るわたしの全てが
自分であることを受け入れると決めて

そのプロセスで起こる葛藤を手掛かりにして
それは自分の一部だと認めるために
「影」に追いやったものの存在を
あぶり出そうと常にモニタリングしている。


それは仮面のレベルの「浄化」にも
つながっていく。


もちろんそれは、常に成功するわけではない。
毎瞬毎瞬、自分に気づき続けられるほど
わたしの心は強くはないし
無意識に人のせいにして
後からあちゃーっ、と頭を抱えることもある。

それでも、そこに意識を起き続けることで
何年もかけて少しづつ、進んできた。

これってつまり「心の筋トレ」みたいなもの。
誰だってやり続けていたら
いつのまにかできるようになっちゃうんだ。

わたしはわたしであるという自己受容感を
心から感じられるようになった一年前からは
生きるのが格段に楽になり
人生がひらけてきているのを感じている。

・・・

この春までは、ひらくことには意識をおけども
モニタリングし続けるということは
相方との間でくらいしかやっておらず

他の人と会う時に、半日もそれをやっていたら
へちゃっと、たれぱんだになっていた、わたし。


でも最近は、誰と会うときにでも
どんなにそれが立て続いていても

自分をひらいておくことと
自分のなかで何が起こっているかを
できる限りモニタリングしているみたいで

ここ最近の、出かけた時の異常な疲れ方は
そのせいなんだ、とやっと気がついた。

そりゃあ、疲れるわけだよね。


今日は代官山から帰ってきたら
すっかりたれぱんだになっていたわたし。


向後さんと話している間に
押し込めていた「影」の部分が出てきて
右まぶたがチック状にぴくぴくするわ
水を飲んだら咳き込んじゃうわで

やっぱりセラピストの存在感って
半端じゃないわと、観念して
少しだけ自分の話をさせてもらった。

お陰で自分が何を気にしていたのかが
また少し明らかになったのは、ありがたかったな。


「意識のスペクトル」や
インテグラル理論」などの
ウィルバーが作ってくれた地図。

それを手がかりにして進んだり
体験的に理解したりしてきたのが
この6年くらいの道のりだった。

そろそろ今度は、それをわたしなりに
応用しながら、使いこなしていきたい。

そんなことも考えながらの、いちにちだった。
今日もやっぱり、いい日だったなあ。

 

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