ごはんと瞑想と日々のうたかた

おいしいごはんと、瞑想のようなもの思いから浮かぶ言葉と、日々のささやかなできごと。そんな生活の切れ端と、たまにディープに心のことを、思いつくままにつづります。

わたしは軟体動物

 

この数日、軟体動物と化している。
多分、脊椎はない。貝殻をなくした貝のような、ぐにゃぐにゃとした生物。


やらなくてはいけないこと(山積したごみを投げるとか、ひとに連絡をとるとか)ができない。
でも、やりたいこと(本を読むとか、英語のアプリをやるとか、やくたいもないことを考えるとか)は、いくらでもできる。

 

この週末は、半ば眠りの国で過ごしていた。
週が明けてからは、ただのたりくたりとしながら、終わらない夏休みのように過ごしている。
内的な作業はできるけど、外向きなことができなくなっている、という感じ。


そんなふうに緩んでくると、自分は、感情や、感覚や、思考を、鋳型に当てはめて捉えていたんだな、という気が、改めてしてくる。

本当にこう感じている、考えている、ではなくて、こういう時にはこう感じなくてはいけない、こんな時にはこう考えなくてはいけない、という、複雑な、でもある傾向に基づいた機械的なパターンが、その鋳型には仕込まれている。
本来は柔らかな身体が感じ、思考しているはずなのに、モビルスーツのような鋳型で鎧って、自分が想定する外部(社会とか、集団とか、環境とか)に向き合っている。

そんなモビルスーツを着るということは、人間が身につけた技術のひとつなのだろう。そうやって定型化された思考パターンを身につけ、ある種の役割(ロール)に身を置くことで、ひとは安全に毎日を送る術を身につけようとしたのかもしれないと思う。

そして、無自覚に、モビルスーツで鎧って生きるということは、ある意味では、夢の中で生きるようなものだ。


そんなモビルスーツを脱ぐということを、この数年はかなり意識していた。それは、わたしがいままで生きてきた社会からドロップアウトするようなものだから、かなり怖くもあるけれど。

着込んでいるときはそれがわたしの世界だから、そもそも鎧っていることにすら気づかない。気がついたからといって、するりと脱げるものでもない。
モビルスーツは、それ自体が生存欲求を持った寄生虫のようなものだから、なんとかして剥がされまいと抵抗し、わたしを幻惑する。自分がいないと怖いことが起こると思わせたり、それがわたしの生存に欠かせないものだと感じさせたりもする。
モビルスーツはわたしの一部でもあり、どこかに脱ぎ捨てて終わりではなく、自分の無害な、もしくは有益な一部として仲良くしたいものだから、話はさらに厄介。それは敵ではなく、むしろ互いに快適にすごせるようになりたい仲間のような存在なのだ。


このひと月あまりは忙しさに取り紛れ、モビルスーツをがちがちに着込んだ毎日を送っていた。(モビルスーツは、そんな時にはとても役に立つ、とも言える)
そんなある日、久しぶりに、強烈な「寂しさ」に取り憑かれた。モビルスーツが醸し出すその感覚に翻弄されつつも、それは自分の本来の感覚ではないはずとじっと眺め居たら、ふいっと水面に浮かぶように、何の感覚もない世界に抜けていた。

ここにいると、身を苛むような感覚は何もなく、ただ穏やかでただあるだけでいることができる。
寂しさも、悲しさも、不安も、期待もない。
モビルスーツも、どうやらおとなしく脱ぎたたまっている様子。


というわけで、もうしばらくはこの緩んだ軟体動物の感覚を味わいながら(身体的には、しんどいんだけど)、ぼんやりとまどろみつつ、何もしないでいようかと思う。


(そして、そうなると逆に、なにかやりたくなったりしてくるんだよね)

 

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