ごはんと瞑想と日々のうたかた

おいしいごはんと、瞑想のようなもの思いから浮かぶ言葉と、日々のささやかなできごと。そんな生活の切れ端と、たまにディープに心のことを、思いつくままにつづります。

場の力、もしくは家の意志

 


(略)言うなれば気合いのようなものだ。気の流れが強い人なんだ。そしてそういうのって長い時間のあいだに、特定の場所にたっぷりと染み込んじまうのかもしれない。匂いの粒子みたいにさ」
「それにとりつかれる?」
「とりつかれるというのは、表現が良くないかもしれないが、何かしらの影響を受けることはあるんじゃないかな。その場の力みたいなものに」 

#騎士団長殺し/#村上春樹

 

まるで谷間の入り口近くの山の上のような家に越してきて、一ヶ月あまり。ようやっと、この家で一人で過ごす夜に慣れてきた。


思い起こせば、一年前の梅雨時に住み始めた家も、その年の秋にひっこした家も、ひそかな気配が感じられるような家だった。案外と臆病なわたしは、同居人の存在や、ちょうど遊びにきてくれた友人の存在に助けられながら、それらのに少しづつ馴染んでいった。

梅雨時に住み始めた家は、新興宗教か何かの道場か、と思うような気配が残っていた。
結果的にわたしの部屋になった、玄関そばの10畳ほどの広間、他の部屋とは少し異なる雰囲気を持ったその部屋は、見た瞬間、少し暗さと怖さを感じるような部屋だった(内覧の同行者は、その部屋が一番光を感じる、と言っていたけれど)
だいぶしばらく経ってからも、夜中に台所に行くたびに煌々とした蛍光灯の明かりに、さっと身を隠す存在があるのではないかと、ドキドキしながら電気を灯したものだった。

秋に住み始めた家は、二階が海外在住者の荷物置き場でほぼ年中不在(年に2度ほど帰ってくる)、隣の棟とは階段を隔てて離れているという、物音が立ちにくい条件のはずなのに、しょっちゅう屋根や壁から、ぴしっ、パシッという軋みや音が鳴っていた。
時々は、何もないはずの机の上から、かさこそと音が聞こえてきたりもしていた。
とはいえいわゆるラップ音的なその気配は、なぜか少しも怖くはなく、むしろ親しげで、そこを離れるのは少しだけ残念な気持ちすらしたものだ。

そして、そんなどちらの家も、そこに何かが「いる」かんじはしたものの、それは単にわたしがそこに「いる」のと同じように、何かが「いる」だけだった。

 

家自体が生きている、家には意思が「ある」と感じるようになったのは、この家に住みだしてから。
特に古民家ということでもなく、曰くつきの家でも、いわゆる事故物件でも、なんでもない。
でも、家に力があるのだ。
そしてその力は、なにかそれ自身の意志を感じさせるのだ。

もちろん家だって、昼間は普通の顔をしている。
取り澄まして、緑のせせらぎ、鳥や虫の声、踊る光、そして近所の子供の声や、デイケアのお迎えの車、ゴミ収集車の音が響く、普通の住宅街の普通の家のような顔をしている。

でも、黄昏時から少しづつ気配が染み出し始めたその空間は、闇が濃くなるにつれて、濃厚な気配を醸し出しはじめる。

不思議なことに、誰か他のひとがいると、いえは素知らぬ顔をして、普通の家のふりをする。
でも、夜中、丑三つ時などに一人目を覚ますと、いえはその濃厚な気配を露わにする。
まるで、生き物そのもののように。


最初は怖かった。とても夜、家にはいられず、家の外の別室で寝起きしていたほどだ。

でもある時、自分なりに家をひらきながら、この家は自分でもあり、自分はまた、家の一部だと感じてから、居住スペースとしている一階は自分の居ることのできる場所となった。
その意味で、まだひらかれていない二階は、まだ異界のままだし、そんなスペースが自分の中にあるというのもとても不思議な感じ。
でも、それもまた、意味があることのようにも感じてはいる。


そんな家にいると、時々わたしは、鯨のお腹に飲み込まれたピノキオのように、もしくは鯨のラブーンのお腹の中に住むクロッカス医師のように、自分を感じる。


そして、この家がわたしに求めていること(もしくはわたしをつかってやりたいこと)は何なんだろうと、ふと、妄想をふくらませる。

 

f:id:tomominkikaku:20170729142438j:plain