ごはんと瞑想と日々のうたかた

おいしいごはんと、瞑想のようなもの思いから浮かぶ言葉と、日々のささやかなできごと。そんな生活の切れ端と、たまにディープに心のことを、思いつくままにつづります。

なぜ成長しなければならないのか。もしくは、すでに幸せであることに気づくということ

「なぜ成長しなければならないのか」

この問いについて、ずっと考えていた、この頃。

 


「人間の意識の発達」ということが、

わたしの大きな関心のひとつであり、

これはそこと絡んでくる問題だったから。

 


「なぜ成長しなければならないのか」

この問いは、わたしにとっては、

 


「なぜ人間は、意識の発達の階梯を、上らなくてはいけないのか」という問いになる。

 


ちょっとシニカルになっていたわたしは、

「そもそも、成長(意識の発達)なんて、必要なの?」

っていうところまで立ち戻りながら、

つかず離れず、このことを考え続けてきた。

  

 

やっと仮説がまとまったのは、今朝。

 


なぜひとは、成長しなければならないのか。

 


それは、幸せを感じるため。

 


幸せに「なる」のではなく、幸せを「感じる」。

 


なぜなら、ひとはすでに幸福なのだから、

もしそれが感じられていないのであれば、

ただそれを感じられるようになればいいだけだから。

 


それが、いまの仮説。

 

 

そしてここでいう幸せとは、誰かや何かがないと失われる幸せではない。自分が自分でいることが心地よいと感じられるような、自己受容感の高い状態における幸せ。

極論すれば、ひとりでいても満たされ、幸せであるという状態のことだ。

 

 

きっかけは、欠乏感でも、承認欲求でも、何でもいい。

 


でも人はどこかの段階で、ひとは自分の心のありように目を向けざるを得なくなるもの。

そしてそこで、幸せを感じられていないと気づくなら、それを感じるための何らかの方法を学び、トレーニングしなくてはならなくなる。

 


そして逆説的だけれども、幸せを感じられ、幸せでいることができるようになった時、すでに人は成長してしまっているのだ。

 

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今朝、朝ごはんを作りながら、低かった自己受容感がとても高くなっていること、そしてひとりの静かな日々の暮らしが、とても心地よいことに気づいて、ちょっと感動していた。

 


そうか、自己受容感ってこういうものだったんだ、ひとりでいても幸せというのはこういうことなんだと、初めてわかった気持ちで。

 

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そんな、1年前の投稿を読み返して、幸せな気持ちになっている今夜♪