ごはんと瞑想と日々のうたかた

おいしいごはんと、瞑想のようなもの思いから浮かぶ言葉と、日々のささやかなできごと。そんな生活の切れ端と、たまにディープに心のことを、思いつくままにつづります。

セラピストの力量とは

 

自分の受けたセッションや
自分が行ったセッションは
録音しておいて
しばらくしてから聞き返している。

かなり以前に受けたものを聞いてみると
あれ、迎合している……と気づくこと多し。
最近は、受けながら気づくようになったけど。

クライアントの自立度が低いと
提供者の誘導に乗ってしまったり
相手に無意識に合わせてしまったりして
セッションの効果が出にくいんだよね。

今年受けた練習会での模擬セッションや
やりあいっこ会での短いセッションは
本当に力のあるもので
セラピストの力量を存分に味わえた。

どちらも本気で泣かされちゃったなあ。

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そして自分が行ったセッションは
聴くまでもなく、反省点がわかっちゃう。
どこまで介入するかって、難しい。
普段の会話でもトレーニングしてるけど
つい、踏み込みが過ぎるんだよね。

いかにクライアントが
自分の内面に向き合えるよう場を作れるか。
そこが、提供者の力量なんだと、改めて。

ああ、久しぶりに、セッションがしたいなあ。

「何も求めあわないパートナーシップとは、成立しうるのか?」という長い問いかけ、もしくは「猫のように生きるとは」という試論

最近、パートナーシップとか、性差とか
男女のわかりあおう、わかりあえない
みたいな話を聞いてて
なんだかもやもやしていた。


別に男だからとか
女だからとか
関係ないんじゃないの?

石ちゃんな相方なんて
男でも女でもないような存在だし
わたしは男女関係なく
ひとのことを好きになるしなあ……
あ、プラトニックに、だけどね……
なんて考えていて。

 

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そもそもわたしの欲求って

その人が見ている世界を見てみたい
それをこの世界に露わにしたい

ということなんだよね。


そう思った時に
あれ、わたしって相方に求めるものは
本当は何もないんじゃない?
って気がついたのだ。


一般的なパートナーって

互いに何かをしあうこと
なんらかの世話をしあったり
共に子供を育てたりと
経済的や身体的、精神的に
助け合うことを当然に求めるよね。


でも、相方に対して
わたしがどうしても求めたいことって

一緒に過ごす時間を取れることと
書くこと、話すこと(レクチャーとか)の共有と
本や知恵を貸してもらうことと(これ、重要!)

……って、親しい友達とか
ビジネスパートナーとかわらない。


もともとが人柄と
その思考や思想に惚れ込んでるから

この面白さをどうやって人に伝えるかという
そのことがわたしには大切で
(本人は、それすらどうでもいいのだけど)

彼を面白がる人が増えてきた最近は
さて、どういう立ち位置でいようかと
考えてしまったりもしていて。


わたしは割と、普通に人間だから
つい、普通の男の人に対するようなことを
求めてしまったりもするけれど
(一緒に遊べとか、話を聞けとか)

でも、理想としては
相方が勝手気ままに生きているのを
一番近くで見ていたいし
できるだけそうできる環境を整えたい
それだけなんだよなあ……って思ってる。


うん、ほとんどこれって
たまにしか来ないよその猫と
一緒にいるようなものだ。


そしてじつは相方も
わたしがそんな猫みたいに
勝手気ままに生きればいいのにと
思っているんだろうなあ。

 

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しかもきっと、望んではいない。
あくまでその人がやりたいように
しているのがいいというひとだから。

そんなあたりも
一般的な男女関係とは異なっていて
何も求めないってそもそも
どういう関係なんだろう……ってなるけどね。



最近勝手にもやっとしていた
いろんな形のパートナーシップ。

わたしから見たら
その人が本当にやりたいことを
やりたいようにやらせてあげることが
世界への何よりの貢献なのにと感じて
それできっと、もやっとしていた。

一般的に、こうだから……という形とか
絵に描いた理想に絡め取られているから
そんな不自由な思いをしてるんじゃん?
なんてね。


でもまあ、だいたいそういう時は
自分ができていないことを人に見ているので

今回も、自分が相方に対して
そうありたいと思ってることを
できていないというジレンマが

ひとへのもやもやを
生み出していたみたいだね。


放っておかれたい
いまは引きこもりたい相方とは
この先、半月は会う予定がなくて
(本当は一ヶ月だったけど、予定が入った)

そんな会わない時間のうちに
自分の気持ちをもう少し、整理しておこう。

一緒に動くことが増えるかもしれない
秋以降に向けて。

ふうう、これってむっちゃ
自立(自律)への試みだなあ。

多動なわたしのアタマのなかは

ADHDの傾向のある人は、沸騰してくる泡のように次から次に思いが浮かんでくる。
だから、今この瞬間浮かんできたものを記憶するのに忙しい。何しろ、この機会を逃したら、永遠にその発想に巡り会えないかもしれないから」

 

カウンセラーの方の、そんな投稿を見かけて、むっちゃ納得。


そうかー、行動における多動のないADHD傾向があると自分のことを思っていたけれど、実は頭の中が多動なのかな。

 

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レーニング(瞑想とか)で、行きっぱなしにはなりにくくなったけど、すぐに頭の中が突っ走っちゃう。直前のことを覚えておくのも、苦手だ。

 

そんなわたしは、気になることは外部に記録しておくと楽。

だからこういう投稿や、録音や即時のタイピング、そして写真による記録は、その安心を得るためのひとつの手段になっている。

 

あまり、読み返したりはしないんだけれども……ね。

よわさを引き受けるつよさ

この数日というもの
心の半分は人との出会いに浮き立ちつつ
残りの半分は、すっきりしない気持ちに
悶々としていた。

 

 

解けないパズルを前に
動けなくなるように。
心のどこかが、過去に囚われていた。

 

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どうにかできたんじゃないか
どこで間違えてしまったのか

 

そういう恐れの迷路にはまり込むと
抜けることは困難になるけれど

 

でも、自分の未熟さは見据えつつも
全てを引き受ける必要はないと思えたら
ふっと軽くなった。

 

わたしは、つよくありたいと思う。

 

自分のよわさは自分で引き受けるという
そんな種類のつよさをもちたい。

 

辛いことや失われたことを
自分で引き受けきれずに
他人や、環境や、社会のせいにする
そんな風潮があるように感じているけれど

 

自分のもつどんな痛みも、どんな苦しみも
自分で引き受けると決めれば
むしろ、楽になることを、知っている。

 

それはひとりで負うということではなく
引き受ける覚悟を持つということ。

 

ただそれだけのことで
世界はまるで変わってくる。

 

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他人のよわさまで背負いこもうとせず
自分のよわさを他人に押し付けようとせず
無闇と強がったりするのでもなく

そのよわさを、自分で引き受けるつよさ。

 

恐れから動いても、なにも変わらない。

 

この道が誤っているのなら
世界がちゃんと、違うよと教えてくれる。


それを信頼して、安心してつぎへいこう。

わたしは軟体動物

だいぶん着なくなったつもりだった、モビルスーツ


でも最近「社会人スーツを着る癖があるよね」と指摘され……そうなんだよねえと、ため息。


ちゃんと振舞わなきゃ、というオトナなともみんが、無邪気なともみんを羽交い締めする。


まあ、こんなことを書いていた2年前と比べたら、随分とましになったよね♪

 


==========
 


この数日、軟体動物と化している。
多分、脊椎はない。貝殻をなくした貝のような、ぐにゃぐにゃとした生物。
 

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やらなくてはいけないこと(山積したごみを投げるとか、ひとに連絡をとるとか)ができない。
でも、やりたいこと(本を読むとか、英語のアプリをやるとか、やくたいもないことを考えるとか)は、いくらでもできる。
 
 
 
この週末は、半ば眠りの国で過ごしていた。
週が明けてからは、ただのたりくたりとしながら、終わらない夏休みのように過ごしている。
内的な作業はできるけど、外向きなことができなくなっている、という感じ。
  
 
そんなふうに緩んでくると、自分は、感情や、感覚や、思考を、鋳型に当てはめて捉えていたんだな、という気が、改めてしてくる。


本当にこう感じている、考えている、ではなくて、こういう時にはこう感じなくてはいけない、こんな時にはこう考えなくてはいけない、という、複雑な、でもある傾向に基づいた機械的なパターンが、その鋳型には仕込まれている。
本来は柔らかな身体が感じ、思考しているはずなのに、モビルスーツのような鋳型で鎧って、自分が想定する外部(社会とか、集団とか、環境とか)に向き合っている。


そんなモビルスーツを着るということは、人間が身につけた技術のひとつなのだろう。そうやって定型化された思考パターンを身につけ、ある種の役割(ロール)に身を置くことで、ひとは安全に毎日を送る術を身につけようとしたのかもしれないと思う。


そして、無自覚に、モビルスーツで鎧って生きるということは、ある意味では、夢の中で生きるようなものだ。
 
  
そんなモビルスーツを脱ぐということを、この数年はかなり意識していた。それは、わたしがいままで生きてきた社会からドロップアウトするようなものだから、かなり怖くもあるけれど。
 
着込んでいるときはそれがわたしの世界だから、そもそも鎧っていることにすら気づかない。気がついたからといって、するりと脱げるものでもない。
モビルスーツは、それ自体が生存欲求を持った寄生虫のようなものだから、なんとかして剥がされまいと抵抗し、わたしを幻惑する。自分がいないと怖いことが起こると思わせたり、それがわたしの生存に欠かせないものだと感じさせたりもする。
モビルスーツはわたしの一部でもあり、どこかに脱ぎ捨てて終わりではなく、自分の無害な、もしくは有益な一部として仲良くしたいものだから、話はさらに厄介。それは敵ではなく、むしろ互いに快適にすごせるようになりたい仲間のような存在なのだ。
  
  
このひと月あまりは忙しさに取り紛れ、モビルスーツをがちがちに着込んだ毎日を送っていた。(モビルスーツは、そんな時にはとても役に立つ、とも言える)
そんなある日、久しぶりに、強烈な「寂しさ」に取り憑かれた。モビルスーツが醸し出すその感覚に翻弄されつつも、それは自分の本来の感覚ではないはずとじっと眺め居たら、ふいっと水面に浮かぶように、何の感覚もない世界に抜けていた。


ここにいると、身を苛むような感覚は何もなく、ただ穏やかでただあるだけでいることができる。
寂しさも、悲しさも、不安も、期待もない。
モビルスーツも、どうやらおとなしく脱ぎたたまっている様子。
 
 
というわけで、もうしばらくはこの緩んだ軟体動物の感覚を味わいながら(身体的には、しんどいんだけど)、ぼんやりとまどろみつつ、何もしないでいようかと思う。
 
 
(そして、そうなると逆に、なにかやりたくなったりしてくるんだよね)

〇〇がドラッカーを読んでみたら

わたしは自分の好きなものを

「これ面白いよーっ」て

言ってるだけだから

伝わらなかったのか……⁉︎という

 

昨日読んでいたドラッカー

今朝、読んだ記事に重ねての、今更な発見。

 

 

相手が何を求めているかを把握するとか

未来を見せるとか

そういうことは当たり前と思ってたけど

 

考えてみたらわたしは

すでにお客さんとなっている人にしか

それをやってなかったのかも。

 

 

かつてやってた仕事って

すでに販売済みの無形の商品に

価値を付与するというような仕事。

 

自動車事故に遭われた方の対応とか、

銀行での関与先への日々の対応とか、ね。

 

でも、お客さんじゃない人に対しては

それをしてなかった……のではないか。

 

つまり商品を販売する、っていうことは

やってないし、やったこともない……かも?

 

 

先日、ドラッカーを勉強している人が

「集客に困っている」と漏らしたのに

目が点になった。

(仮にもドラッカーを勉強してるなら

「顧客の創造」を考えるとこだろう?)

 

でもそれ以来、ドラッカーのいう

「顧客の創造」とは何か、を考えていた。

 

 

「集客」という言葉は、実はちょっと苦手。

 

ひとりひとりのお客さんの顔が見えない

ただの数として扱うように感じるから。

 

 

対する「顧客の創造」とは

マーケティングイノベーション

 

そのうちのマーケティングについて

ドラッカーが書いているのはこんなこと。

 

"真のマーケティングは顧客からスタートする。

すなわち現実、欲求、価値からスタートする。

「われわれは何を売りたいか」ではなく「顧客は何を買いたいか」を問う。

「われわれの製品やサービスにできることはこれである」ではなく「顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足がこれである」と言う。"

【エッセンシャル版 マネジメント/P.F.ドラッカー/ダイヤモンド社 p17】

 

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リンクした記事で言っていることは

それと全く同じこと。

そしてわたし、分かったつもりでいながら

やってないじゃん、と。

 

 

自分が世界に提供できることは何かは

ぼんやりと見えてきたような気がしている。

 


今度は世界が求めていることは何かという

逆方向から考えてみるといいのかな。

 


さて、冒頭にあげたタイトルの

【〇〇がドラッカーを読んでみたら】

 


この〇〇には、何が入るのだろう?

それを発見するのも、楽しみな取り組み♪

 

 

以下、リンクより引用。

 

【プレイの四元代表 「売る」ではなく「買ってもらう」】
https://senken.co.jp/posts/stance-play-190726


"販売を始めたころは、何も買わないで客を帰したら上司に怒られたが、疑問を感じていた。

「買う、買わないの選択権はお客側にある。お客の意識と会社のミッションが乖離(かいり)している」。

 

だったら、どうするか。購入することで得られる未来をお客に提案し、「売る」のではなく、「買ってもらう」ことにした。

 


 ふり客であっても会話を通じて瞬時にニーズを拾い、商品を頭に浮かべながら提案を組み立てる。「困っていることを教えて下さい」「なんで(店に)来たんですか」など、客のニーズを探る行為そのものがマーケティングスキルになる。"

自分の世界を、好きなものごとだけで 満たしてみたら。

一度、二度会っただけなのに
すっと話がとおるひとと
全く通じ合わないひとがいて

長い付き合いだったり
何度も会っているのに
フィーリングがあわなかったり
ズレを感じてしまうひともいて


なんだか不思議なのだけど
最近は、その差が極端に出る。
相手にとってもそうなんだ……
と、手に取るようにわかるほど。

 


誰とでも仲良くしなきゃとか
せっかくご縁があったのだからとか
へんな色気や責任感に絡め取られて

自分の感覚よりも「すべき」というのを
優先させてしまっていたけれど

それをやめ、直感を信じて
自分の偏愛を優先したら
どうなるだろうという誘惑にかられる。


どうでもいいと思ってることをやめて
自分の世界を、好きなものごとだけで
満たしてみたら。

 

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……むっちゃ当たり前のことなのに
やってないな、それ。


やってみるかな。
むーん、できるかな?