ごはんと瞑想と日々のうたかた

おいしいごはんと、瞑想のようなもの思いから浮かぶ言葉と、日々のささやかなできごと。そんな生活の切れ端と、たまにディープに心のことを、思いつくままにつづります。

フーコー 思想の考古学 より

フーコーは患者をその連想から分析するという新しい技法を学びながらも、「わたしは患者の心の中で何が起きているかということよりも、医者と患者の間でなにが起きているか、ということに強い関心を持った」と語っている。精神病院という現場においてフーコーが直面していたのは、心理学の技術の問題であるよりも、精神疾患の治療という実践がもつ意味だったのである。

 

フーコーはこの論文で、心理学が「五十年前まで」は哲学の一部門であったことを指摘しながら、人間の心を対象とする学問が、人間に対する省察である哲学と分離してしまっていることに疑念を表明する。”

フーコーは、生物学の専門家が、本物の生物学のほかに、哲学的な生物学の存在を認めたりしないことを指摘しながら、専門の心理学者が、本物の心理学と、本物ではない心理学が併存しうるとかんがえていることに、「混乱と根本的な懐疑」をみている。

 

そしてこの病理学は、精神と身体を統一するように見えながら、現実の人間が身体と精神の生きた全体性であることを見過ごしてしまう。精神の病を脳の手術で「治療」できるという信念を野蛮な形で実行したロボトミーは、それを極限の形で示したものだった。

 

この病的な宇宙は、患者の主観性に彩られている。ある患者が自己の病をどのように受けとり、意味づけるか、そこには疾患性の客観性ではなく、強い主観性が存在する。しかし患者にとって病は、客観性のしるしを伴う。病の宇宙は強い明証性を特徴とし、患者にとって自己の幻想は疑いえない性質のものである。重篤な疾患では、患者は自己のこの病の世界の中に埋没してしまう。外部の世界は亡霊の世界となり、自己の病の世界だけが現実的で明証的なものとして経験されるようになる。そして自己の周囲の世界の自明性や自己との親しさは消滅する。

 

フーコーは、身体と精神の統一性を回復するためには、精神の病理学をこの「抽象的な〈メタ病理学〉のすべての前提から解放する」必要があると考える。ということは、精神の病に、器質的な病とは独立した地位を与えようとすることである。そのためフーコーは三つの視点を提起する。

 

第一の視点は、患者の主観性の分析という観点から、精神の疾患を考察しようとするものであり、疾患は患者がよりよく生きようとする模索の表現であり、患者の実存の表現であると考えるものである。

 

第二の視点は、精神の病を患者の置かれた社会と民族の歴史的なあり方から考察しようとするものである。これは文化人類学的な狂気の考察と、歴史的な狂気の考察を含むものであり、患者の疾患を文化の表現とみなすものである。

 

第三の視点は、精神の疾患を社会における疎外のあり方を表現したものとみなし、狂気からの解放を社会的な改革の課題と暗黙のうちに結びつけようとするものである。これは「現代の社会では誰もが精神分裂病である」と喝破したドゥルーズの『アンチ・エディプス』に近い考え方である。

 

 

 

フーコー 思想の考古学/中山元