ごはんと瞑想と日々のうたかた

おいしいごはんと、瞑想のようなもの思いから浮かぶ言葉と、日々のささやかなできごと。そんな生活の切れ端と、たまにディープに心のことを、思いつくままにつづります。

女神はどーん、ぴかーっ、と在ればいい

"どーん、とそこにいて、美しく圧倒的にぴかーっと光っていればいいの。愛っていうのは、甘い言葉でもなくって、理想でもなくって、そういう野生のありかたをいうの。"

"人間が自分や他人にしてやれることの話よ。それが愛、でしょ?どこまで信じ切れるか、でしょ?でもそれをやろうとすることのほうが、考えたり話し合うよりどれだけ大変か。どれだけエネルギーを使い、不安か。"

"あんたたちを見てると、何となく集中力が足りない、って感じがする。足が止まってる時が多い。何となく。何よりもがむしゃらに生きたらいいのにって思う。"

吉本ばななの『アムリタ』の一節

主人公の朔実の母であり
一家の大黒柱であり
精神的支柱であるひとの言葉。

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これは、どんな人にも当てはまる一般論であり
一部の人についての特殊論でもある。

人を見ては
天使だの宇宙人だの女神だのと思ったり
時には口にしたりもしているが

わたしのもつ女神とは、こういうイメージ。

今年になってから、更に
何人かの女神を発見し、ほくほくとしている。

しかし、今年知り合った女神に共通するのが
不思議なほどの自信のなさや、後ずさりする癖。
程度の差こそあれ、足が止まってる。

わたしなんて、という引っ込み方や
やっていること、在り方への確信のなさが
ちらちらと見え隠れする。

その度に、机をどん、と叩きたくなる。

あなたは女神なんだから
わたしなんか、とか、自信がないとか
つべこべ言ってないで
ただ、圧倒的にぴかーっ、と光って
「わたしはわたしよ」と微笑んでいればいい。

 

 

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それは、気持ちを押し殺して
無理にそうしろ、ということでは決してない。

あなたにだって、葛藤や不安や恐れは
あって当然だと知っている。
でも、できてるかな、いいのかな、と
おどおどすると、あなたの魅力は、半減する。

そんなわたしもわたしよ、と
葛藤や不安や恐れすらも光に変えてしまう
圧倒的なエネルギー。

それが、女神の魅力なんだよね。
きれいごとじゃない、野生のありかた。
そのままの、その人でいること。

だから、あなたは自分と他人とをただ信じて
ただどーん、とそこに立ち
美しく圧倒的に、ぴかーっと光っていればいい。

そんなあなたに触れることで
勇気をもらい、先に進めるようになるのだから。

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凪のような心で

北海道の実家からのメロンと
高知からの河内晩柑
梅ジャムを添えたヨーグルト
メロンの種とわたのジュースで
遅めのブランチな今日。

5月から走りっぱなしで
鼓動も呼吸も荒かったけれど
やっと落ち着いてきた。

波立ち続けていた心身が
少しづつ凪になり

水中のような静けさが広がり始める。

朝夕の瞑想や坐禅ができるようになり
晩柑の粒のひとつひとつまで味わいながら
穏やかな心地よさに満たされる。

ああ、やっとここに
静かなところに戻ってこれたと
ほっとする。

出かけたり、人と会ったり
いろんなことを気にしすぎたりして
外側のことに気を取られていると
自分の内側までが忙しくなる。

動きながらも、心は常に凪いでいる。
そんなふうにあれるよう
日々を少しづつ、重ねていこう。

 

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「ペルソナ」と「影」の境界が崩壊する日

昨日今日と、セラピーを生業としている方と
話しながら改めて、心づいたこと。


最近のわたしはひとと会うときに

自分をひらいておくことと
自分のなかで何が起こっているかに
気づき続けるということに

いちばん力を使っているみたいだ。

・・・

セラピストにとっての浄化とは?
というテーマについて
いろんな方の意見を伺っていた、ここ数日。

それは、自分の心に何があるのかを
クリアに把握し続けること。

相手や自分の心や情動との間に
適切な距離をもち、そこに飲み込まれない
自己感覚を持てるようになること。

改めてそう、確信した。


それができないと、そこでおこる様々なことに
不用意に巻き込まれてしまったり
自分と相手との境界が曖昧になってしまったり
場の中で露わになったものを
引き受けられなくなってしまう。

・・・

思想家のケン・ウィルバーは『無境界』の中で
アイデンティティの主なレベルを
スペクトル状に配置するという試みを行う。

スペクトルの最後のレベルである
仮面(ペルソナ)のレベルでは
自我がさらに限定されるとし

「影、すなわち魂の好ましくない側面を
疎外、抑圧し、心の特定の側面、
われわれが仮面と呼ぶ魂の一部だけに
アイデンティティをもつようになる」
(『無境界』p25-26)

と言う。

 

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(『無境界』p25)

 

これはどういうことかというと
ひとは、これがわたしだと認められる部分
好ましい姿だけを、自分だと思いたがり

残酷だったり、醜かったり、ずるかったりする
そんな、みたくないような自分の一面や
怒りや憎しみ、恨みなどの感情を抱えている
そんな自分は、自分ではないと思いたがる……

そんな傾向が当然にある、ということだ。
 
 
そんな、自分だと認めがたい自分をも
自分だとみとめ、受け入れていくのが
「わたし」を含み超えていく道程だけれども

それができずにいると、認められない自分は
影として追いやられて疎外され
時には自分ではなく他人や環境が
自分にその行為や感情を向けていると錯覚する。

境界線をひくことで
「境界線が領域を、戦いの可能性を秘めた
二つの相対立するグループにわけてしまう」
ことになり
「仮面としての自分対環境、からだ、頭の
諸側面の間に戦線が生じる」
結果となってしまう。(『無境界』p26)


それによって何がおこるのか。

例えば昔のわたしは、自分がどう見られているか
自分の言葉がどう受け取られているか
そんなことを気にしてばかりいて

相手の話を聞いているような顔をして
全く聞くことができていなかった。

つまり、自分の「影」を見られることを恐れ
「見られたいわたし」を見てもらうことに
腐心していたわけだ。


でもその「見られたくないわたし」も
わたしであると受け入れられれば
それを影に追いやる必要は消えいく。

だからいまのわたしは、自分をひらき
自分と相手の目に映るわたしの全てが
自分であることを受け入れると決めて

そのプロセスで起こる葛藤を手掛かりにして
それは自分の一部だと認めるために
「影」に追いやったものの存在を
あぶり出そうと常にモニタリングしている。


それは仮面のレベルの「浄化」にも
つながっていく。


もちろんそれは、常に成功するわけではない。
毎瞬毎瞬、自分に気づき続けられるほど
わたしの心は強くはないし
無意識に人のせいにして
後からあちゃーっ、と頭を抱えることもある。

それでも、そこに意識を起き続けることで
何年もかけて少しづつ、進んできた。

これってつまり「心の筋トレ」みたいなもの。
誰だってやり続けていたら
いつのまにかできるようになっちゃうんだ。

わたしはわたしであるという自己受容感を
心から感じられるようになった一年前からは
生きるのが格段に楽になり
人生がひらけてきているのを感じている。

・・・

この春までは、ひらくことには意識をおけども
モニタリングし続けるということは
相方との間でくらいしかやっておらず

他の人と会う時に、半日もそれをやっていたら
へちゃっと、たれぱんだになっていた、わたし。


でも最近は、誰と会うときにでも
どんなにそれが立て続いていても

自分をひらいておくことと
自分のなかで何が起こっているかを
できる限りモニタリングしているみたいで

ここ最近の、出かけた時の異常な疲れ方は
そのせいなんだ、とやっと気がついた。

そりゃあ、疲れるわけだよね。


今日は代官山から帰ってきたら
すっかりたれぱんだになっていたわたし。


向後さんと話している間に
押し込めていた「影」の部分が出てきて
右まぶたがチック状にぴくぴくするわ
水を飲んだら咳き込んじゃうわで

やっぱりセラピストの存在感って
半端じゃないわと、観念して
少しだけ自分の話をさせてもらった。

お陰で自分が何を気にしていたのかが
また少し明らかになったのは、ありがたかったな。


「意識のスペクトル」や
インテグラル理論」などの
ウィルバーが作ってくれた地図。

それを手がかりにして進んだり
体験的に理解したりしてきたのが
この6年くらいの道のりだった。

そろそろ今度は、それをわたしなりに
応用しながら、使いこなしていきたい。

そんなことも考えながらの、いちにちだった。
今日もやっぱり、いい日だったなあ。

 

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熊の神さまがやってきた日

「ご近所からクマの肉をもらった。
食べるなら冷凍して送るよ」

 

そんなラインがきたのは、数日前のこと。

シカは料理したことがあるけれど
クマはまだ、経験がない。


料理研究家の相方のお母さんに尋ねても
イノシシならあるけれど……という返事。

 

1キロという量にひるんだけれど
ともみさんが料理してくれるなら
食べてみたいという言葉に背中を押され
送ってもらうことに。

 

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「肉塊」というラベルのついた
冷凍便で届いたカチカチの熊肉は
袋越しにもわかるほどのケモノ臭。
冷蔵庫で一晩解凍し、いざ調理へ。

 

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筋膜とおぼしき緑のネットのような膜をはぐと
鮮やかな紅色の肉が姿をあらわす。

 

ざっと下ゆでしてから、解体を始める。
筋肉のかたまりを握り、引き剥がし、
結節点の筋を削ぎ切りながら一口大に。

 

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未処理のかたまり肉を扱うのは初めての経験で
はぎ分けているうちに、ふと
肉食獣が狩った獲物を食らっているような
そんな思いにかられたり

熊送りをするアイヌが狩る熊を
解体している時の気持ちを想像したり

 

暑い中、肉と格闘しながらの
不思議なひと時。

 

切り分け終わり、圧力鍋にかけた途端
立っていられないほどの疲労感。
ぼんやりと座り込み、待つ間に煮上がった。
当初の臭みはなんとか抜けた。


それでもまだ癖はある大和煮風。

相方宅へ持参して、お昼ごはんに。

 

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熊神さまがきた!と大喜びの相方は
ちょうどアイヌの文献を読んでいたとか。
かつお節みたいな味などと言いながら
にこにこして食べている。

 

それをみて誤解した相方のお母さんが
ともみさんの料理は食べるのねえと
ちょっぴり呆れ顔。

 

そして、暑かろうが病気で伏せろうが
食欲は衰えないわたしは
作るだけでお腹いっぱいという気分を
初めて味わった。

 

ぱくぱくと食べられるものでもなく
それぞれに3・4切れほどをいただいて。

 

たまたまいらしたご近所の方に出したら
喜んで持ち帰りまでしてくれたみたい。
ありがたし。

 

鹿肉の時は直感的に
人参とトマトで煮込んだけれど
今回は小手先では太刀打ちできなそうと
まじめにレシピも探してみた。

 

なるほど、りんごで甘みをつけるのかと
参考にした、一番シンプルなレシピはこちら。

https://cookpad.com/recipe/2416495#share_url

 

最近は、ほぼベジタリアン的食生活だけど
「いのちをいただく」ということまで
感じられた、肉と格闘した1日。

疲れて、食後は寝落ちしちゃった。

 

しかし、母が書いていた「肉塊」は
インパクトが大きかったなー。

素敵なアラカンへの道のりは

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少し前までは同世代なアラフィフ女子との
出会いが立て続いていたけれど

ここのところ、素敵なアラカン世代の女性と
ご一緒する機会を得ている。

人生のなかで、先輩と仰ぐような存在を
もつ経験があまりなかったわたしとしては
なんともありがたく、うきうきと会いに行く。

お話を伺っていて、すごいなと思うのは
やるべきことだけじゃなく
やらないことも、明確なこと。

直感で大胆に決めていくことと
慎重に考える、そのバランスの絶妙さ。

そして驚くほどにオープンで
目の前の人のことを真剣に考えている。

そんな人たちと出会っていると
10年後、15年後のわたしは
そんなアラカンになれているのかなあ、と
ちょっと遠くを見るような気持ちになる。

れんこん餅は、鎌倉マダムから

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ゴディバは、関西マダムからの頂きもの。

 

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さりげなく相手を喜ばせる
こんな粋さと心遣いを
いつか、わたしも身につけられたらいいなあ。

なぜ成長しなければならないのか。もしくは、すでに幸せであることに気づくということ

「なぜ成長しなければならないのか」

この問いについて、ずっと考えていた、この頃。

 


「人間の意識の発達」ということが、

わたしの大きな関心のひとつであり、

これはそこと絡んでくる問題だったから。

 


「なぜ成長しなければならないのか」

この問いは、わたしにとっては、

 


「なぜ人間は、意識の発達の階梯を、上らなくてはいけないのか」という問いになる。

 


ちょっとシニカルになっていたわたしは、

「そもそも、成長(意識の発達)なんて、必要なの?」

っていうところまで立ち戻りながら、

つかず離れず、このことを考え続けてきた。

  

 

やっと仮説がまとまったのは、今朝。

 


なぜひとは、成長しなければならないのか。

 


それは、幸せを感じるため。

 


幸せに「なる」のではなく、幸せを「感じる」。

 


なぜなら、ひとはすでに幸福なのだから、

もしそれが感じられていないのであれば、

ただそれを感じられるようになればいいだけだから。

 


それが、いまの仮説。

 

 

そしてここでいう幸せとは、誰かや何かがないと失われる幸せではない。自分が自分でいることが心地よいと感じられるような、自己受容感の高い状態における幸せ。

極論すれば、ひとりでいても満たされ、幸せであるという状態のことだ。

 

 

きっかけは、欠乏感でも、承認欲求でも、何でもいい。

 


でも人はどこかの段階で、ひとは自分の心のありように目を向けざるを得なくなるもの。

そしてそこで、幸せを感じられていないと気づくなら、それを感じるための何らかの方法を学び、トレーニングしなくてはならなくなる。

 


そして逆説的だけれども、幸せを感じられ、幸せでいることができるようになった時、すでに人は成長してしまっているのだ。

 

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今朝、朝ごはんを作りながら、低かった自己受容感がとても高くなっていること、そしてひとりの静かな日々の暮らしが、とても心地よいことに気づいて、ちょっと感動していた。

 


そうか、自己受容感ってこういうものだったんだ、ひとりでいても幸せというのはこういうことなんだと、初めてわかった気持ちで。

 

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そんな、1年前の投稿を読み返して、幸せな気持ちになっている今夜♪

自分とのパートナーシップからはじめたら?

恋人や夫婦の関係における
理想とするパートナーシップのすれ違い。
それで苦しんでいる人って
多いんじゃないのかな。

例えば、とりたて問題もないスタイルなのに
極端なスリムさが美の基準となっていて
それを目指した挙句、拒食症に陥ってしまう。

そんな形で、せっかくそこにある
金の卵を産むがちょう=ふたりの関係を
殺してしまっているのではないか、と。

 

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多くの女性的な役割を担うひと
(以下、女性と表記)にとっては

そしてもしかしたら、一般社会にとっても

理想的なパートナーシップって
対話し、互いに肯定的な言葉をかけあい
心のうちを包み隠さず話し
家事も育児も共同で行なっていく。

常に寄り添いあい
話し合いで物事を解決していく。
そんなイメージなんじゃないかな?

対して男性的な役割を担う人
(以下、男性と表記)にとっての

そして男性社会の中での
あるべきパートナーシップって

黙って寄り添いあうなかで
心のうちをわかりあえて
分業で互いの役割を果たしあう

それは時には外のことは自分が
うちのことはパートナーがという形で……

そうやって、ふたりの関係がうまくいく。

ステレオタイプかもしれないけれど
そんなイメージが、垣間見える。

自身が結婚していたときの経験や
いくつかの真摯なカップルを見ていて

女性は、言葉を尽くし
協力しあえることを
パートナーシップと感じやすいし

男性は、言葉を使わずに寄り添いあえ
自分のやりたいことを助けてもらうことを
パートナーシップと感じやすいのでは……
というように見えていて

そのことと、理想とのすれ違いが
苦しみを生んでいるのかもしれない。

 

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でもそもそもそれは、本当にあなたの望み?と
尋ねたくなる。

言いたいのは
男性の特性や、女性の特性を知ろう
違いをわかりあおう、ということではなく

世間にもてはやされるような
パートナーシップという
ありもしない理想モデルを
二人が追いかけていること

そして互いが自身の本当の望みに
フォーカスしていないから起こる
すれ違いがあり
そこに根本的な原因があるのでは
ということだ。

いまの相方とつきあいだした当初には
いくつもの戸惑いがあった。

「普通の男の人のようじゃないから」
と自らがいう通り
人間とか男性とかという範疇に
属さないような彼との間では
既存の男女間の考え方が通用しなかった。

わたしの常識は、ことごとく
ひっくり返されていった。

干渉されたくないし
ひとりで引きこもりたい。
3日も一緒にいると、きつくなっている。

辛抱強く、合わせてはくれるけれど
だんだんと弱ってくるのがわかる。

捕まえられ
いじりまわされて死んでしまう
虫かごの中の昆虫みたいに。

 

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でも、そういう生きものだから、仕方ない。
その生態に合わせるしかない。

そうやって、別々に暮らしながら
時折会うという生活をしているうちに
自分の中に変化が生まれた。

もともと24時間365日
恋人とべったり一緒にいたいタイプ。
それがパートナーというものの定義で
一緒に事業をやっているカップルを見て
それって最高じゃない?と思ってた。

でも気がつくと
一緒に住みたいとも思わなくなり

会いたいときに会いに行く
一泊か二泊して帰る、といういまの生活が
とても心地よくなってきた。

共に住むことがあるとしても
多分、食事と出かけるとき以外は
互いに不干渉で過ごすのだろう。

ひとりの時間を大切にとりながら。

一般的なパートナーシップの
モデルからは外れているけれど
喧嘩ひとつせず
仲が良いとはよくいわれる。

それほどまでに
パートナーシップとは多様だ。

だから自分自身と相手がどう生きたいのか
どう在るのが心地よいのかということを
知らないままに関係なんて築けない。

自分の、そして相手が口にする言葉と
本当の望みとは
イメージに絡め取られているせいで
実はかけ離れているかもしれない。

わたし自身、まだまだ
理解できているとは到底言い難い。

でも、一番親しいはずの他人のことを
わからないかもしれない
わかっていないということを前提において
共に過ごせるというのは、とてもありがたい。

だからこそ
他人について理解したと勘違いする自分を
やはりわかっていないと
戒めることができるし
無邪気に恋に落ちることさえもできたりする。

みんな、わかっていない
わからないという明るいあきらめを持って
パートナーと共にあればいいな、と思う。

わからないから知りたい
わかりたいと思うから共にいる。

その人と一緒になろうと思ったのって
きっとそこからだったんじゃないかな?
そしてもし、それが失われたら
共にいる理由もなくなってしまう。
そんな風に感じてる。

そもそも、ひとりでいられないなら
ふたりでだっていられない。
そうじゃないのかな?

わたしは長い時間をかけて
ひとりでいることを学んできた。
その仕上げのように相方と付き合いだして
ひとりで充足することを知ることができた。

相方のように
ふたりでいることが学びになるひともいれば
わたしのように、ひとりでいることが
むしろ学びな人もいる。

 

ひとりでいることが学びなひとの特徴は
ひとりではいられない、ってことだ。

 

人に見られる
見せるためのパートナーシップなんて
うわべだけ飾って
中身が発泡スチロールでできた
豪華なウェディングケーキのよう。

でも自分のために作るなら
不恰好でも食べられるケーキの方がいい。

 

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そんなおいしいケーキを作るために
自分の内側を見つめるのは
実はとっても、楽しい作業なんだ。

自分の本当の望みにフォーカスすること。
自分を生きたいように生きさせてあげること。

そんな、自分とのパートナーシップが
本当は、なによりも大事なんだよね。

ふたりでいて、もっと大きくなれるはずなのに
ふたりでいると小さくしぼんでしまう……
なんてことにならないためにも。